TOKYO 2020 ボランティア体験記

2022年07月15日

TOKYO 2020のボランティア活動に参加された、イスパニア(現在スペイン語)学科 42Eの天野治さんから、投稿が届きました。


東京2020から1年経って思う事

応募のきっかけ

 2013年9月「おもてなし」で東京2020オリンピック、パラリンピックの開催は決定した。

この時、オリンピックのボランティアをやってみたいと感じた。

何をすれば良いのか? どうすれば出来るのか? 高齢者でも出来るのか?

その日から色々自分なりの調査を始めた。

2016年リオオリンピック閉幕後いよいよ次回は東京、世の中のムードは一気に盛り上がる。

その中でボランティアの応募が2018年5月に始まるとのニュースが発表された。

早速資料集めに都庁に訪問、まだ職員も詳しくない、出来たてのパンフレットを

貰い内容チェックする

大きく分けて、都市ボランティア(都募集)と大会ボランティア(大会本部募集)に

分かれていた

前者は大会会場最寄りの駅で関係者、観客の道案内、1万人

後者はそれぞれ会場内での全ての手伝い、8万人の応募する事が分かった。

当然応募開始と共に両方に応募した。

締め切りは2018年9月末、大会本部からマスコミに応募人数が発表された

都市ボランティア2万人、大会ボランティア24万人と聞いた瞬間驚きを感じた

こんなにも沢山の方が応募したのか? どの様な方法で採用のマッチングをするのか?

悩む暇なくそれぞれの事前の合同研修会が始まった。

それぞれ100名単位ぐらいで毎日二時間単位で各地で開催された。

東京2020大会の三つのコンセプト「全員が自己ベスト」「多様性と調和」「未来への継承」

それを基本にオリンピック、パラリンピックの歴史等の研修がスタートした。

特に「多様性」については全ての人が平等であリ尊重する心、行動の必要性等

私にとって当たり前のことが実は当たり前で無かった事に気付かされた瞬間でも有った。

数回の研修を受け、その後面接を受け、後日発表を待った。

当然学生時代にスカウトクラブに属し、ボランティア活動をした事もPRした。


にマッチングの案内が来たのは都市ボランティアからだった。

先ずは一安心、そしてその2ヶ月後に大会ボランティアからマッチングの案内が来た。

特に大会ボランティアの採用は四倍近い競争の中でのマッチング、嬉しかった。

もうその時は2019年の秋だった。開催まで一年もなかった。

オリンピック、パラリンピック共に応募し、全ての日程に参加できる事も

採用のポイントになったのかも知れない。

都市、大会共に採用されたので残念ながら都市の方はキャンセルせざるを得なかった。

希望会場は新しく完成した新国立競技場を希望した。

会場決定

その後会場、担当は国立代々木競技場、イベントサービス(EVS)チームリーダーに決定

EVSとは観客のセキュリティ、チケットチェック、指定席までの案内である。

競技はオリでハンドボール、パラで車いすラグビーとバトミントンである。

その後、今度は担当別の研修が始まる。eラーニングも毎日のようにネットで流れてくる。

会場での研修も決定、開催まで残り七ヶ月!

コロナ感染拡大

ところが2020年2月に世界中が新型コロナ感染で一変する。

日本もオリンピックムードから一変、

今度はこんな時期に開催するのか?国や都は何を考えているのか?

心の中では何とかそれまでに収束して欲しいと祈ることしか出来なかった。

その時点で知人達にもボランティアの話題はしなくなった

5月頃に政府から一年の延期が発表された。

選手達はこれから1年間自己ベスト維持出来るのか?

私自身も健康で過ごす事が出来るのか?

それから一年間収まることなく、より多くの感染拡大が続く事になるl

しかし一方大会本部からは有観客を目指し、毎日の様にe-Learning、

リーダー研修とリモートでの研修が続いた。

当然英会話の研修も受けた。何十年振りの授業で有った。


最終的にオリは無観客、パラは学校提携関連のみの有観客が決定された

大会ボランティアもコロナを始め諸々で一万人位の辞退が出た。

開催一年遅れで開催

難産の上、オリ、パラリンピックは開催された

オリンピックは無観客になったので仕事が変わり、大会関係者(自衛隊、警察、ガードマン、

大会に関係する裏方)の胸のカード作成を担当した

このカードが無ければ一切会場に入れないと言う責任有る仕事(ACR)だった。

勿論参加国のトップで有ってもこのカードが無ければ入場は無理である。

体育館ではハンドボールの試合が開催されていたが、客がいない為淡々と

ゲームが進められていた。ハンドボールはヨーロッパを中心に人気のあるスポーツの為

最終試合は毎日夜9時からだった。結果フランスが男女とも金メダルを獲得した。

日本は男女とも予選で一勝しただけで予選敗退だった。

観客と応援

約3週間後パラリンピックは学校提携関連のみの有観客となった。

見学校は非常事態宣言中であるので地元の学校が多かった。

幼稚園、小学、中学、高校生と期間通して計2000名位の参加者であった

でも当初の仕事が出来たので嬉しかった!

バスでの参加が多い為一度に来場、出迎え、席への誘導そして見送り、

当然案内する席も三席飛ばしで座って貰った。

コロナが無ければどんなに賑わっていただろう。

きっと選手と観客が一体となってより盛り上がった事と思う。残念であった。

私のレガシーと心の変化

車いすラグビーでは銅メダル、バトミントンは最終日車いすバトミントンで

女子シングル、ダブルスで金メダル、それ以外にも銀、銅メダルと獲得

子供達と一緒に応援し、一緒に一喜一憂、そして喜び合った。最高の瞬間だった。


改めてオリンピアンの自らの記録を目指し、スピードとパワーの限界に、

パラリアンの苦悩から立ち上がり、自らの可能性を信じチャレンジする精神力を

教えられた。

共に心の中に感動と、これからの生き方を知らされた一瞬でもあった。

こうして夢にまでみたボランティアは終了した。

そして最高の「おもてなし」と自身のレガシーを完成させ、2021の夏は終わった。




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